ポンコツ内向型人間として思うこと

 

 

こんにちは。shiroです。

 

人は大きく分けて外向型と内向型に分かれるという論があります。ざっくり言うと、他人との交流やパーティーなど外からの刺激によってエネルギーを得るソーラーパネルタイプか、自己の内面を見つめたり読書したりすることによってエネルギーを充電する蓄電池タイプか。一見するとパリピか根暗かみたいな論ですが、そう単純なものではなく、人と話すのが大好きだけど内向型という人もいれば、人見知りでシャイだけど外向型という人もいるらしいです。

最初見かけたときは、また人間が大好きな二項対立が出てきたなあと思っていたのですが、これが意外と真理かもしれないなと最近思うのです。

 

世の中は基本的に外向型人間向きに作られています。人との交流が大好きで、レスポンスの早い外向型は仕事面でもプライベート面でも有能な人、面白い人という評価を受けやすい。逆に内向型人間は、人との交流が不得意とまではいかなくとも、刺激が多すぎると疲れてしまいます。休息が必要なので、外向型ほど沢山の活動をこなすことができません。レスポンスについても、シナプスの経路が生物学的に長い関係上、長考が必要になってくる。即答できない内向型に対して、外向型は「なんでこの人黙ってるんだろう、何も考えてないのかな、判断が遅いのかな」と感じてしまうのです。

 

私は自分自身が内向型であるという自覚が大いにあるのですが、「内向型の強みをいかしていこうよ!」という主張にはまだ諸手を挙げて賛成できません。というのも内向型の強みとは深い思考にあり、私にはまだその思考力が足りていないからです。早いレスポンスもできず、深く考えることもできない超ポンコツなのです。

 

それにやはり、外向型への憧れはまだまだ捨てきれずにいます。

どんな理屈をこねくり回そうと、魅力的なものは魅力的なのです。内向型の良いところを何十個並べられようと、仕事してフェス行って友達と飲み行ってまた仕事してとエネルギッシュに活動してキラキラしている外向型が羨ましくてしょうがないのです。

 

こんな状態のまま「内向型いいよね!内向型でよかった!」なんて言ってもそれはただの強がりで、真の意味で自己肯定しているわけではありません。ますます虚しくなるだけです。

私が真に自分の特性を受け入れるには、もう少し時間と経験が必要なようです。

しかし逆に言えば、このように「まだ自分が自分自身を受け入れられてない」ということを受け入れることが、自己肯定への第一歩だとも思うのです。

 

ADHD然り、内向型然り、世の中を歩いて行くにはどうしても不都合であると認めざるを得ない特性に対して、「それは個性だよ!!堂々と認めて歩いて行こう!」という論調の文章が至る所に書かれています。もちろんそれで励まされる人もいるのでしょう。しかし私はどうしても普通の人になりたかった。頑張れば治ると言って欲しかった。そんな私にとって、そのような文章は自分の特性を肯定的に認めなければならないという呪いに聞こえるのです。

 

本当は全然認めたくないのに、ポジティブに認めなければならないというのはかえって自分の首を締めます。だからもし私と同じように、自分の特性に苦しむ人がいたとしたら、受け入れられない自分を受け入れてほしい。「あ、私はまだこの特性を認めたくないんだな」と思えると、不思議と苦しさが減って行くような気がします。認めるのは今じゃなくていい。いつか認められるようになればそれでいい。気の済むまで全力で抗って、いつか諦めがついたらその時は受け入れよう。それくらいでいいんじゃないかと思うのです。

 

ポンコツ内向型人間は、もう少し抗います。